日本イエス・キリスト教団 三木栄光教会は、聖書が教える神の福音(良き知らせ)をみなさまにお伝えし、すべての人に救い主イエス・キリストによって与えられる「永遠のいのち」を受け取っていただきたいと願っています。聖書が教える「永遠のいのち」とは時間的に無限であるという命の長さを超え、罪によって死に支配されるこれまでの命とは完全に異なる、キリストの性質に与る新しい命という意味なのです。すなわち神の命です。

教会はクリスチャン(聖人ではなく罪赦された罪人のこと)だけが集う場ではありません。聖書をまだ読んだことがないという方も、教会は初めてという方も歓迎いたします。日本人の伝統的宗教である神道(神社信仰)、八百万のカミガミや仏教が伝える阿弥陀仏などと何がどう違うのか、この世界はこれからどうなるのか、人は死後どこへ行くのかなど、さまざまな疑問への明快な解答を聖書の中に見出せることでしょう。

日本では昔から「神様というのは心の中でいると思えばいるし、いないと思えばいないのだ。」「鰯の頭も信心から」だから「何でも拝めばそれが神になるのだ。」という話を聞かされます。それで自分の好きな形に作ったモノを拝んでいます。しかし、地上のあらゆるものは変質し、破壊されれば簡単に消滅します。ものも言えず人に運んでもらわなければ自分で動くこともできない、そんなカミガミがあなたに命を与え、あなたを死から救うことが本当にできるでしょうか?

「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『だれを捜しているのか』と言われた。彼らが『ナザレのイエスだ』と答えると、イエスは『わたしである(エゴー・エイミ)』と言われた。」(ヨハネ福音書18:4-5)
真の神は永遠に存在され「わたしは在るという者である(ギリシャ語:エゴー・エイミ)」と、ご自身の臨在を人の言葉で直接人に顕された神です。イエスが天地創造の神であることは「神はモーセに仰られた。わたしは『わたしはある』という者である。」(出エジプト記3:14)という旧約聖書の記述からも明らかです。
当教会はイエスの復活された日を覚えて毎週日曜日の朝、天地万物の創造主(創世記1:1-2:1)であり、永遠に生きておられ、人類のすべての罪を贖われ、再びこの地上に来られる実在の神を礼拝しています。(ヨハネの黙示録22:7)

人の想像や願望から人が考え作り出した神話のカミガミ、偶像(木・石・人・自然界の動植物など)ではなく、人を創り宇宙を創られ、聖書にご自身を明らかにされている真の神を礼拝しましょう。唯一の救い主=キリストについて、キリスト=イエスを信じる者に与えられる聖霊(助け主なる神)について、興味のある方もどうぞご参加ください。教会では聖日礼拝の他にもいくつかの集会を開いています。ぜひご自由にお越しください。聖書・讃美歌などは教会に備えてあります。強制や勧誘などのご心配は無用です。心よりお待ちしております。

神の愛・罪と救い・御国の希望

「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」と、あなたをあわれむ主は仰られる。(イザヤ書54:10)

神がこの世界に人(アダム&エバ)を創造されたとき、神と人は神の愛によってひとつとされ死も苦しみも無い世界でした。けれども神の被造物でありながら神に戦いをいどむ存在となった堕天使(サタン)によってエバ(女)があざむかれ、エバによってアダム(男)が誘惑されて神ではなくサタンの言葉に従ったのです。そのとたん人は自ら選び取った「罪」に支配され、神に背を向け自分を主として生きるようになりました。その結果として神の警告通り「死」に支配されるようになりました(創世記3:1-22)。聖書は「死(ギリシャ語:サナトス)」を分離として教えています。肉体的死は肉体と霊の分離であり、霊的死は霊と神の分離ということです。アダムとエバは神に背いたときに霊的死を体験し、その後肉体的死を体験することになりました。

聖書が語る「罪(sin)」とはギリシャ語(原語)でハマルティアという言葉で「まとはずれ」という意味です。それは唯一の救い主である神イエス・キリストを無視して生きることを意味します。もちろんこの世の犯罪も「罪(crime)」と言いますが、それはこの地上生涯の人間社会において償うべきもので、神と人の関係における罪とは意味が異なります。全人類はアダムとエバの子孫であるため生まれながら罪(神との関係が絶たれた状態)を持っているのです。これを「原罪」といいますが、聖書は罪の報酬は死であると教えています。

「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ書6:23)

この世界は神の愛から離れ、一時の喜びや満足を求めて争いが絶えません。それは神のみこころではありませんでした。本来の道(いのち)を見失い、まとはずれの人生を歩むわたしたちが、ふたたび神との関係を回復できるようにと、神は愛をもって神のひとり子キリスト(救い主)・イエスをこの世界に与えてくださいました。グレゴリオ暦ではその日を紀元として歴史はBC(Before Christ=英語でキリスト以前の意味)とAD(Anno Domini=ラテン語で「主イエス・キリストの年に」キリスト紀元という意味)に分けられ、わたしたちは今この歴史の中に生かされているのです。

※イエスの誕生は実際にはヘロデ王の治世(紀元前37年〜紀元前4年)であること、そしてヘロデが死去する直前にイエスはすでに2歳近くであったとすれば、イエスの生誕は紀元前6年〜紀元前4年頃と推定されます(マタイ福音書2:1、2:16-20)。12月25日はキリスト・イエスのご降誕を記念して祭礼を行う日であり、イエスの誕生日とは違います。イエスの誕生日については聖書に記載がありませんが、人として生まれた神の御子が人類と幕屋を共にするのにふさわしい日でもあったことからBC6年のニサンの月1日(3月20日)の安息日ではないかという説が支持されているようです。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネの手紙第一4:9-10)

イエス・キリストは神でありながら、人を救うために人となってこの世に降誕された方です。それは人の知恵によっては理解できないできごとですが、人智を超えた神のご計画でした。神話やおとぎ話ではなく歴史上の事実です。神であるイエスは人として地上に生きた約33年半の生涯においてまったく罪がありませんでしたが、自ら罪人の身代わりとなってローマ軍による極刑である十字架刑に処せられました。全人類の全生涯の罪をその身に負われ、ゴルゴタの十字架でわたしたちの罪を代わりに償い、わたしたちを神の裁き(永遠の死)から贖ってくださったのです。

そして聖書の預言通り、イエスは埋葬から3日目によみがえられました(ルカの福音書18:31-33)。復活されたイエスはしばらくの間、弟子たちと共にこの地上で歩まれた後、イエスを信じる者の内には聖霊(助け主となる神の霊)を与えることを約束され天に昇られました(ヨハネの福音書14:16-17)。「復活」とは「死」がもはやまったく効力を失ったことを意味しています。それは死をもたらす「罪」が完全に消え去り、二度と死ぬことがない命に生かされることを証ししています。もしイエスの復活が無ければ、イエスをキリストと信じる私たちの信仰は実に虚しいものとなります。

「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子(イエス)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3:16)

人が神に罪を赦されて救われるために必要なことは何でしょうか。お金、善行、努力、修行、哲学、念仏、神社参拝、偶像崇拝・・・全部違います。神の契約書である聖書には救われるための方法が次のようにはっきり書かれています。
「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ書10:9-10)
わたしたちの全ての罪が神に赦され、神との関係を回復される(救われる)には、イエス・キリストが十字架で私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目に死からよみがえられたという良き知らせを信じることだけです。

人はイエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われることができます。人が考え出した難行苦行や功徳を積み良い行いに励んだり、神でないものを信心し念仏を唱えることなどによって救われることは決してありません。そして「贖宥状(しょくゆうじょう)=免罪符」のように金銭で罪が赦されることなど、全くありえないことです。(エペソ人への手紙2:8-9)

礼拝は毎週日曜日(10:30〜11:30)

あなたを創られ、あなたを愛しておられる
万物の創造主なる神を礼拝しています。
聖書の福音(Good news)は神からのメッセージです。
ご一緒に分かち合いましょう。
教会はすべての人が神を知り、神とともに生きるようになるために、神によって備えられた聖なる場です。どうぞご参加ください。

聖書が教えるように、神のみこころはイエス・キリストを信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。そして世の終わりの日に、そのひとりひとりを皆よみがえらせることが神のみこころなのです。(ヨハネの福音書6:40)

この世界の歴史はどこに向かっているのでしょう。聖書を知らない多くの人々は、この世は滅亡に向かっていると考え、死を恐れ不安におののいています。もし聖書の福音を信じることができず、神を無視しつづけるなら確かに悲惨です。永遠の地獄に投げ込まれることが定められているからです。ところが聖書はこの世界は全く新しい神の御国の創造に向かっていると教えています。これは古いものをリノベーションするとかアップデートとは違います。完全に本質の異なる新しい世界という意味です。そして聖書の神を信じる人類は、全員キリストとともに永遠に神の御国に住むようになるのだと教えています。

聖書がわたしたちに語る究極のゴールは、新しい天と新しい地(神の御国)に神と共に住むようになることだと教えているのです。神によってはじめに創造された、現在わたしたちが住んでいる世界、天と地と全宇宙のすべては時間も含め、やがて神によって完全に消滅される時が来ます。でも、それで終わりではないのです。全人類もまたこの世界で死んで終わりではありません。

終わりの日にはすべての人が死からよみがえらされ、神の審判を受けることが決まっています。イエスを信じて救われた者は栄光の肉体を与えられ、永遠に新しい天と地からなる神の御国に住むものとされると聖書は教えています。今から2000年余り前に神は全人類が神の御国に入れるようにと、イエス・キリストを与えてくださいました。この神の御国に入れるのは、イエスを救い主と信じ、キリストの十字架によって罪が贖われた人(子羊のいのちの書に名が書いてある者だけ)です。それが、わたしたちが救われるために神が備えてくださった唯一の方法なのです。(ヨハネの黙示録21:1-27) 創世以来イエスがこの地上に降誕される以前に神を信じて従った人々や預言者たちも、既にキリストにあって召天された愛する人々も、共に復活して神の御国に住むようになるのです。

神はわたしたちに「死んではいけない。生きよ。」と今も語り続けているのです。
死後の世界(よみ:ハデス)でも悔い改めれば救われるという「セカンドチャンス」はありません。黄泉(よみ)は、神を知らずに死んだ者が天国へ行く救いを受けるために存在しているのだと教える異端教会があります。しかし、そのような教えは聖書を大きく逸脱した人間の希望的観測にすぎません。カトリック教会が言う煉獄(れんごく)も存在しません。聖書は死者のための祈りを教えていません。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だからです。(ルカ福音書20:37-38)

今は恵みの時です。この地上に生かされている間に福音を信じて永遠のいのち(キリストのいのち)を与えられ、新生したクリスチャンにとって、たとえ問題だらけの生活環境や困難な仕事環境が変わらなくても、病や死と向き合わなければならなくても、この地上生涯は天の御国への希望に満ちた人生へと変えられるからです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(IIコリント人への手紙 5:17)

ぜひ、神が与えてくださったこの良き知らせ(福音)を信じて、永遠のいのちを受け取ってください。心よりお祈りしています。


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